バイクが壊れてもう一月半。
必然、休日はゴロゴロと過ごすことが多くなってしまった。
ツーリングに最適な季節だというのに、文字通り髀肉の嘆を託つ日々。
…これではいかん! ってことで、都内の散歩に出かけてみた。
とんとご無沙汰のツーレポ代わりに東京散策番外編。はじまりはじまり。
まずはのんびりチャリンコで中野駅へ。
北口ロータリーに面した立ち食い蕎麦屋に寄り、アジ天蕎麦で軽く朝飯。
中央線の上りに乗って、11:25、お茶の水駅で下車。
さて、お散歩開始。最初の目的地は湯島聖堂。
改札を出て聖橋で神田川を渡って、ハイ到着。実に早い。
湯島聖堂は五代将軍綱吉によって建てられた孔子廟である。
もともとは儒学の学問所だったが明治政府によって閉鎖されてしまった。
様々な紆余曲折を経て、残る施設は大成殿他ごくわずかだ。
大成殿の内部には孔子像が祀られていて、独特の雰囲気を醸している。
ちなみにこの日は文化財ウィークとかで地図片手に散歩している人が大勢いた。
だが今や儒学の研究者はいても信奉者は存在しないようだ。
続いて向かったのは神田明神。
湯島聖堂の西門を出て北へ徒歩数分、ハイ到着。
大己貴命(おおなむちのみこと)と平将門を祀り、江戸っ子の尊崇を集めた神田明神。
しかし明治天皇行幸の際、朝敵だった将門は祭神から外されてしまった。
その代わりに勧請されたのが少彦名命(すくなのみこと)。
明治維新は神仏分離令で仏教に打撃を与えただけでなく、神道側も混乱させたのだ。
平将門命が本社祭神に復帰したのは意外と最近で1984年(昭和59年)のことである。
ちなみに大己貴命=大国主命=大黒様、少彦名命=恵比寿様。
どちらも江戸っ子が大好きな七福神である。
今日は七五三のお参りに加え、結婚式も行われていた。
さすがお江戸の総鎮守。今なお参詣者は多い。
日本三大祭りに数えられる神田祭も有名である。
明神男坂を下って11:45。次に向かったのは湯島天神。
立瓜坂、三組坂、清水坂を経て…それにしても坂が多いな。
鳥居の手前で何やら行列が出来ている。親子丼が売りの店らしい。
丁度昼時。休憩がてら僕もその店、鳥つねに並んでみた。
10分ほどで店内へ。カウンターに着席して上親子丼1500円(高!)を注文。
具の無い澄まし汁を啜りながら待つ間に店のパンフレットを読む。
大正元年創業、鳥一筋八十年の老舗らしい。ふむふむ。っと親子丼がやってきた。
早速、胃の腑へワシワシかきこむ。もぐもぐ…むむ! こいつぁうめぇ!!
噛み締めるほどに味が染み出る上質の鶏肉と、濃厚な半熟の黄身。
それらを纏める甘めの割り下がこれまたドバドバのツユだくなのだ。
最近、汁かけ御飯への偏愛が著しい自分としては感動モノである。
具と汁とホカホカ御飯が渾然一体となった親子丼。
丼を両手で包み「うわぁー、鳥と玉子の宝石箱やー!(彦摩呂風)」と叫びたい。
ちなみに平日のランチタイムには親子丼1000円もあるらしい。食べて後悔はしないだろう。
食事を終え、行列を後にして湯島天神(湯島天満宮)の鳥居を潜る。
菊祭り開催中で参道の両側にはテキヤが並んでいた。
カルメラ、ワタ飴、チョコバナナに菊の花。
開運グッズを売っている露店商が滔々と述べる口上が面白かった。
祭神・菅原道真はご存知の通り学問の神様。
受験生の参拝が多く、絵馬も大量に掛けられていた。
江戸時代の学者・文人も数多く参詣していたようだ。
東の男坂を下ると大聖歓喜天を祀る湯島聖天があった。
元々湯島天神の境内にあった堂宇が、これまた神仏分離令で遷されたものらしい。
それにしても聖天とは、仏教の天部でも珍しい部類である。
この界隈の社寺はどれもこれも一癖あって面白い。
柳の井戸という名水があったが味見し忘れた。
天神下の交差点に出て北上し、12:30、上野公園・不忍池のほとりにでた。
公衆トイレに寄って、反時計回りに池を巡る。
蓮の葉で水面は殆ど見えない。開けた水辺では鴨が餌に群がっていた。
池の彼方には弁天堂と奇妙な形のビルが見える。
晴天に恵まれ11月とは思えぬ陽気だ。自販機で冷たいお茶を買って喉を潤す。
長閑な秋の土曜午後。まったり。
交差する参道を左に折れ、橋を渡って中之島の弁天堂へ向かう。
江戸時代初期、京都の比叡山延暦寺に習って寛永寺という寺院が建立された。(詳しくは後述)
その際、不忍池は琵琶湖に見立てられ、この中之島・弁天堂も竹生島から勧請されたらしい。
弁財天は勿論七福神の一つ。今も線香が沢山炊かれ、参拝者も多い。
エレクトーンを演奏しておひねりを貰う爺さんなどもいて、妙な賑わいがある。
対して右手の大黒天堂はひっそりした雰囲気。
眼鏡を供養する「めがねの碑」や魚を供養する「魚塚」なんてのもあった。
裏手の橋を渡ってボート乗り場の手前を右に。
アウトドア生活を営むプロキャンパーのテント村を横目で見つつ池の西側へと歩く。
右手の柵の向こう側は上野動物園だ。パンダを見たい気もするが今日はお預け。
次に向かったのは先ほど触れた寛永寺。
上野動物園の西側をなぞるように北へと進む。
不忍池付近の賑わいは遠のき、落ち着いた趣の町並みに変わる。
森鴎外の住居跡から清水坂を経、上野高校を過ぎ大黒天が祭られた護国院を右折。
東京芸術大学をスルーして、13:25、寛永寺に到着した。
東叡山寛永寺は徳川家の菩提寺としてかつて隆盛を誇った。
京都の比叡山延暦寺に習い、江戸の鬼門・東北方向に建立されたのは前述の通り。
東叡山の山号には「東の叡山」の意味が込められており、天台宗の関東総本山でもある。
家康・秀忠・家光の三代に渡って将軍家の帰依を受けた南光坊天海という僧侶によって開山された。
天海は「黒衣の宰相」とも呼ばれる怪人物で、明智光秀だったという説まである。
それはさすがに眉唾だが東照大権現の神号決定や江戸の都市計画など幕府支配の基礎を築いた。
天海の死後も将軍家や諸大名の篤い帰依は江戸時代を通して続いた。
やがて皇族が門主を務めるようになり政治力もさらに強まって寛永寺は隆盛を極めることとなる。
その栄華も幕末に終焉を迎える。上野山の彰義隊の戦で堂宇の殆どは消失。
荒廃した敷地は東京府の管轄下に置かれ、新政府によって公園に指定された。
駅・公園・動物園・博物館・学校に至るまで、上野一帯は全て寛永寺の元敷地と思って良い。
今は参拝する人も少ないが、江戸幕府の始まりと終わりに大きく関わった波乱万丈の寺なのである。
上野中学校から国立博物館の裏手を巡って寛永寺霊園に出た。
路上駐車の車列の中を見ると、どの車も運転席を倒して昼寝中。お疲れ様です。
新坂を下って、13:45、山手線鶯谷駅の線路を渡る。
この辺りを歩くのは初めてだが、谷と名乗るだけあって高低差が大きい。
言問通を右折し、昭和通との交差点の手前にあるのが次の目的地・入谷鬼子母神。
「恐れ入谷の鬼子母神」で有名なアレである。本来は法華宗真源寺という寺院だ。
思ったより小規模で、門から御堂までの距離も短い。
ちなみにここでは「鬼」の字の頂点の一画は書かないそうだ。
仏教に帰依した善神ってことで角がないらしい。へぇ。
ここには畳針の供養塔があった。もう何でもあり。
昭和通を左折して北上。寄り道しながら三ノ輪方面へ向かう。
次の目的地までちょっと距離がある。
これだけ歩いたのも久しぶりだ。さすがに疲れてきたなぁ。
地下鉄三ノ輪駅をスルーして明治通りを渡って右へ約100m。
14:25、目黄不動尊と呼ばれるお寺、天台宗永久寺に到着した。
といっても思わず見過ごしてしまうほどの間口である。
不動明王が安置されてる御堂も小さく、参拝者も皆無だった。
知っての通り、東京には目白と目黒という地名があり、山手線の駅もある。
だが白と黒だけでなく、他の色もあるのは御存知だろうか?
目白・目黒に加え、目赤・目青、そして目黄。
戦隊ヒーローを想起させるが、まとめて江戸五色不動と呼ばれている。
これも既出の怪僧・天海によるものらしく、陰陽五行に配されているらしい。
「らしい」ばかりで申し訳ないが、実際どの寺がどの色に当たるのか異同も多く、詳しいことは判らないのだ。
まぁとりあえず、こんな伝承もあるよってことで済ませてね。
さてとお次は都電荒川線。
三ノ輪橋駅まで歩き、アーケードの古本屋で文庫本を購入してから乗車。
14:50、出発。終点の早稲田まで約一時間、のんびりと城北地域を進む。
これで運賃160円ってのは安いものだ。
出発するたびに「チンチン」と金の音が車内に響く。
ジジババから女子高生、子供連れのお父さんまで普段の足として活用する都民は多い。
途中、信号待ちしている前の車両に追いついてしまった。
時間調整のためか大塚駅でちょっと長めの停車。
雑司が谷の辺りは、以前勤務していた絵本の出版社があった地域だ。
懐かしさを覚えつつ、15:45、早稲田駅に到着。
早稲田大学方面に歩いてゆくと、どうにも浮ついた雰囲気。
何かと思ったら大学祭だ。そういえば、そういう季節だった。
テレビにも出演したらしい男子のダンス・ユニットがステージで踊っている。
一方、路上で怪しげな宗教の新聞を通行人に配っている女子もいたり。
まぁ文化だし祭りだし。なんでもありなのが江戸の伝統か。
早稲田駅から地下鉄東西線に乗って中野へ。
これにて本日のお散歩終了。ふぅ疲れた。
東京ってのは奥が深いねぇ。恐れ入谷の鬼子母神。