やらない善より、やる偽善 その1


先週、新潟県を襲った中越地震。最大震度7、避難所で生活する被災者は一時期10万人に。
マスコミは被災地の状況を日々伝え、ネットでもいろんな形で支援活動が行われている。
いろいろ考えた挙句、今回のツーリングは予定変更。
新潟・中越地方へ赤十字バイク隊のボランティア、通称バイク隊に参加することにした。

さて、レポートを書く前に僕のボランティアへの考え方を披瀝しておこう。
(完全な私見の暴論なので、不快に思った方はスルーして下さい)
僕は「ボランティアは自己満足が目的」と思っている。
本当に被災者のためを思って行ってる人がほとんどだろうけど、
それでも「自己満足」と自覚して行動すべきじゃなかろうか。
「困っている人を助けている」とか「社会のために奉仕している」とか「正義」とか、
ボランティアの側がそんなオコガマシイことを言うべきではない。
というか、僕は恥ずかしくてそんなこと言えない。
僕の場合は、「被災地を放っておくと罪悪感を覚えて不満が残るから」この土日に行くことにした。
被災者のためではない、自分のためだ。自分に出来ることをやって、自己満足できればOK。
偽善と言われても構わない。自覚しているので被災者の方々の感謝は不要だし、誰がどう思おうと関係ない。
ただ、行くからには現地の負担になりたくない。向こうの迷惑になっては罪悪感が残ってしまう。
野宿するためのキャンプ道具、二日分の食料、水、バイクの修理工具に防寒具・雨具…っていつもの装備とほとんど変わらんな…。
あ、避難所の子供にあげるためのお菓子を追加したか。
まぁ、全てを持参した、いわゆる自給自足、自己完結型のボランティア、これが僕の原則である。
ネットや先遣隊とのメールのやり取りで、ボランティアの受入体制や交通情報などを事前に調査。
行く先は小千谷市に決定した。

出発は午前7:00。練馬ICから関越道へ。結構寒い。
途中の電光掲示板では「小出~長岡 地震通行止」と、しつこいほど表示されている。
8:15、上里SAで休憩&朝食。きつねうどんを食す。
ついでに小千谷市のボランティアセンターのあるサンラックおぢやへ電話。
バイク隊の受付状況を確認。直接行けば良いらしい。
藤岡JCTを過ぎてからの関越道はさすがに交通量が少ない。
土曜日の朝のこの時間、いつもなら下り線は行楽客で間違いなく混雑するのだが…。

赤城高原・沼田を過ぎ、やがて谷川岳が行く手に見えてきた。
頂付近に雪が見える。確実に冬は迫ってるんだなぁ…。
9:30、谷川岳PAで小休止。トイレのついでに、谷川岳の自然水をペットボトルに汲みなおした。
自宅の水道水より断然美味かろう。この2リットルで今日明日を凌ぐ。

谷川岳PA 閑散としてた…

谷川岳PA 閑散としてた…

荷物満載、いつも通りのセロー君

荷物満載、いつも通りのセロー君

関越トンネルは車線規制で一車線通行。地震の影響だろうか。
新潟へ抜けると、何となく周囲の様子を気にしてしまう。
平地へ下ってくるにつれて、地震の爪あとが見えてきた。
傾いたスキー場のリフト…川で何やら作業しているクレーン…路面のひび割れ…。。
湯沢PAで給油を済ませ、10:15、六日町ICで高速を降りた。
っと警察が検問をやってる。マイカーの自粛のためか、行く先と目的を聞いている。
「小千谷で赤十字のバイク隊のボランティアで…」
「あぁ、道分かる? 気をつけてね」
おぉ、高速料金を払わずに済んだ!! ラッキー♪

インターのすぐ側にあったセブン・イレブンでメモ帳と500mlのお茶を購入。
ここから十日町経由で小千谷へ向かう。最も被害の大きかった地域を通らねばならない。
路面状況に気をつけて出発。

まずは六日町からR252で十日町までの峠越え。
片側通行の区間もあったが支障なし。紅葉が艶やか過ぎるほど美しかった…。
十日町でR117を右折。北へ進むにつれ、倒壊した家屋がちらほら見え始める。
アスファルトの段差やひび割れも多い。ひどい段差は通行止め。
ちょっとした段差は砂利でスロープ状にされているので四輪も普通に通っていた。

事前に仕入れた情報ではR117で小千谷まで行けるとのことだったのだが、実際は関越道・越後川口IC付近で通行止め。
迂回路をどうしたものかと思ったが、地元・長岡ナンバーの車が次々と手前の道を曲がってゆくので、その車列についてゆくことにした。
川井大橋で信濃川を渡って県道を川口方面に。いやはや酷い状態だ。
後で知ったが、この辺りがまさに震源だったらしい。
パックリと30cmも口を開いた地割れが片方の車線に延々と続いていた。
もう一方の車線も地盤沈下でマンホールだけが路面に飛び出た状態。
先頭の自家用車は慎重にルートを選んで進んでいた。対向車とのすれ違いにも気を使う。
パトカーや救急車、復旧に従事するダンプや自衛隊の車輌も多い。

川口橋を渡りR17を左折、信濃川沿いを小千谷へと向かう。
途中、川縁の崖に立てられたカーオーディオの店が、半分中に浮いた上体で川の方に傾いていた。
崩れた土砂が路面を厚く覆っている箇所もあった。無理やりローラーで整地した上を通過。
柿の木を巻き込んだのだろうか、赤々と熟した柿の実が土砂のそこかしこに埋もれていた。
木津で左折しR351を経て小千谷駅前に到着。いよいよ小千谷市街だ。商店街は酷い有様。
ひび割れたビルの入口はロープで塞がれ、割れたショーウインドウがブルーシートで覆われている。
表面がボコボコにはがれた歩道には、何とか運び出した商品や家具が積まれていた。
小千谷総合病院の近辺にある何台もの路上駐車は、負傷者の看護だろうか…。

関越道・小千谷ICの手前で右折。ナビを頼りに進んで、12:05、到着したのは小千谷総合体育館。
「このあたりだよなぁ…」とサンラックおぢやを探すためにバイクを降りて歩いて回った。
体育館の周辺には全国から寄せられた物資のダンボールの山。
ボランティアが仕分け作業を行い、台車に詰まれた物資が飛び交っている。
体育館の中では医薬品などの手続き業務やいろいろなサービスの受付窓口があって大混雑。
また正面の広場では各種の炊き出しが行われていた。
丁度正午のお昼時。炊き出しに関するアナウンスが放送されている。
あっちの給水車にはバケツやポリタンクを持った人々の長い列…。
自衛隊の車輌に迷彩服の隊員もあちこちに。そこはまさに戦場だった。
地震という天災に奪われた平穏な生活を取り戻そうと、被災者と支援者が手を携え必死で抗う戦場だった。

体育館をグルリと一周したがサンラックおぢやの場所が分からず、結局直接電話。
200mほど離れた場所に見える建物だった。なーんだ。
バイクに戻ると、ダンボールを抱えた男性に声を掛けられた。

男性「どちらからお越しですか?」
塩犬「あ、東京からです」
男性「ありがとうございます、僕は新潟からなんですが全国からの応援が心強いです」
塩犬「いえ、たいした力にはなれませんけど」
男性「いえいえ。僕もオフロードバイクに乗りますが、この辺りの地割れは本当の地割れなので気をつけて下さいね」
塩犬「はいっ、お気をつけて」

バイクでサンラックおぢやへ着き、早々にボランティア登録の手続きを済ませた。
名前・連絡先・特技・期間などを書いて、名前とオフロードのバイク隊を示すガムテープを胸に張って準備OK。
バイク隊のスタッフの方に声を掛けたら、あいにく12:45までバイク隊は昼食休憩らしい。
「時間になったら担当者が呼び集めますので、それまで食事を済ませて下さい」とのこと。
ってわけで僕も今のうちに昼食。カロリーメイトと飲むゼリー。

赤十字バイク奉仕団の本部です

赤十字バイク奉仕団の本部です

やはりオフ車が多い 特にセローが…

やはりオフ車が多い 特にセローが…

12:45、バイク隊、集合の声。全体説明の後、初めて来た人向けの説明があった。
今日の業務は各避難所への医薬品配送とニーズ調査、そして被災者の話し相手。
外部と遮断された状態に長時間置かれた被災者の方々の孤独感を少しでも和らげること。
二人一組でペアを組んで行動し、単独行動は厳禁。絶対に無事故で。
危険を感じたり作業に不安がある場合は遠慮せず辞退すること。

一通りの説明の後、早速ペアで行動開始。
僕がペアを組んだのは川崎から来たKDX乗りの男性Mさん。
避難所の番号と名称が書かれた用紙と配布書類を受け取り、位置・ルートをナビゲータースタッフに確認。
それから出発の手続きを済ませ、医薬品他、配送する物資を受け取り出発。
先導役を交互に勤め、互いに補いあいながらMさんとあちこち回った。

何となく凛々しいセロー君

何となく凛々しいセロー君

マスコミが取材に来てたのを逆取材

マスコミが取材に来てたのを逆取材

1件目はDAMZ駐車場。どこかと思ったら、サンラックおぢやから看板が見えるほど近い。
200mくらい離れた場所にある、二階建ての駐車場だった。
車が何台か停まっていて、テントも張ってあったが、ちょっと様子が変だ。
キャンプ用のテーブルでくつろいでいた方々に声を掛けてみた。
「すみません、この避難所の責任者の方は…?」
「ん? ここ、ボランティアの人間しかいないよ?」
Σ(゚口゚; ボランティアの野営場か!?
1件目終了。。

2件目は廃校の片貝小学校の先、R117沿い。
一軒のガレージの入口をブルーシートで覆い、畳を敷き詰めた避難所だ。
近隣も済める状況ではないらしいが、各戸で個別に避難生活を送っているようだ。
住宅が並んでいるが完全に倒壊した家屋もある…。周辺の分も含めて御用聞き開始。
ここでは下着類とオムツが不足していた。復旧作業で汗をかいても着替えが無くて困ってるそうだ。

塩犬「紳士用下着ですね、近隣も含めて30枚…と…」
おっちゃん「がはは、紳士だってよ」
塩犬「みなさん、紳士でしょ(゚ー゚)ニヤリ で、女性用下着は何枚?」
おばちゃん「私、まだ女性で通じるかしら…w」
塩犬「(´-`) ンー かろうじて…」
一同「わはは」

ちょっと失礼だったかもしれないが、笑いを取れたので許してもらえたかな。
その他には、給水車から貯水槽(といっても風呂桶)へ水を運ぶための大き目のバケツ。
大人用オムツ、サロンパスのような膏薬…やはり現場の声は細かく聞く必要があるなぁ…。

3件目は集合住宅だった。しかし住人は出かけているのか全部屋不在。
通りがかりの方に尋ねたが、大家さんが近くの避難所にいるくらいしか分からなかった。

4件目は小千谷のメインストリートの商店街。総合病院の正面にある避難所だった。
割れた食器やガラスを片付けるための麻袋が大量に欲しいとのこと。
先日の台風による水害で土嚢に使ったため麻袋が品不足かもしれないが出来るだけ大量に。
なるほど普通のゴミ袋では破れてしまうものなぁ。了解っす。その旨報告します。
それからパンばかりが続いているのでオニギリが食べたいとのこと…。
一応報告するが食事に関する要望は市が取りまとめているので、ボランティアセンターではどうにもできない…。(つД`)
去り際に被災者のじいちゃんと会話。

じいちゃん「どっからきた?」
塩犬「東京です(^^」
Mさん「自分は川崎から(^^」
じいちゃん「ほお、遠いとこご苦労様、ありがとう」

じいちゃんからはこの辺りの豪雪についての話を聞いた。
じいちゃん「最近は温暖化で雪も減ったが、代わりに台風じゃなぁ…」
雪が減ったといっても真冬には数mも積もるらしい。雪下ろしを頼むだけで十何万も費用がかかるとか。
そのうえ地震で全・半壊の建物ばかり。雪が本格的に積もるまでに、果たしてどこまで復旧できるだろうか…。

5件目は四ツ子の古谷トレーニングセンターという体育館。
R117を右折して県道を南下するのだが、この道もかなり酷い。
路面のあちこちが陥没しているらしく、砂利で覆った応急処置が施してある。
通り沿いの電柱は傾き、全壊した家屋もあった。

トレセンの被災者は200人余り。管理スタッフの一人のおねえさんに物資を渡す。
子供も多いらしく、医薬品に含まれていた子供用歯ブラシを大いに喜んでくれた。
要望でリクエストされたのは油性マジック、使い捨ての食器、手を洗うための薬用石鹸やアルコール、トイレの掃除用具一式。
水の無い生活ならではの要望が多い。

おねえさん「明日、ボランティアの方が豚汁を作りに来て下さるらしいので、
食器はその方々が持ってきて下さるかも知れませんが…(^^;」

豚汁、子供たちが喜ぶだろうなぁ…( つ∀`)

トレセンから戻って16:10。ボランティア保険の都合で業務は16:00まで、ってことで本日の業務終了。
さて、野宿。今日、行ったDAMZ駐車場でいいや。
Mさん「どこに泊まるか決めてます?」
塩犬「えぇ、あそこの駐車場でテント張ります。Mさんは?」
Mさん「んー、寝袋しか持って来てないから、どうしようかと…」
塩犬「Σ( ̄▽ ̄;)ありゃまぁ…んじゃ、僕のテント三人用なので、よければ来ます?」
Mさん「そう言っていただけると、ありがたい…(^^;」

ってなわけで二人でDAMZ駐車場へ。
辺りはそろそろ薄暗くなり始めていた。駐車場に到着した頃から雨がポツポツ。
天気予報で予想されていた雨なのだが、どこかにいる雨男のせいのような気がしてやりきれん…。

僕がテントを設営している間、M氏は給油に。
水は入手困難だが、それ以外の品物…ガソリン、食料、酒などは一応手に入るのだ。
給油から戻って来たMさんにテント設営を手伝ってもらい、さて夕食はどうしよう。
Mさんはコンビニへ夕飯の買出しに行くらしい。
Mさん、いざとなったら夜は被害のなかった場所へバイクで移動するつもりで、
寝袋もテントも水も持ってきてなかったそうだ。熱い人だなぁ…。
僕は食料を持ってきていたのだが、敢えてコンビニへ買出しに行った。
現地調達しないのが基本だしそのつもりでいたのだが、状況が思ったほど深刻ではなかった。
地震からすでに一週間。流通もかなり回復しているので、ある程度はよかろう…。(駄目?)
ちなみに余った食料は長期滞在のボランティアに翌日渡したので無駄にせずに済んだ。

コンビニに着いたころには辺りはもう真っ暗…まだ17:00くらいだってのに…。
長い夜を見越して、こっそりビールも購入。
不謹慎かも知れないが、こういう状況で適度な息抜きは大切でしょ。
(勿論、こんな事件は絶対に許されない!)
駐車場に戻って地べたにシートを敷き晩酌&夕食。

今日の夕食はコンビニの蕎麦(+マーボー丼)

今日の夕食はコンビニの蕎麦(+マーボー丼)

フライシートのペグを打てないけど屋根あるし

フライシートのペグを打てないけど屋根あるし

ようやく落ち着いてMさんと談笑。仕事やバイク、旅のことなど。
Mさんもシステム・エンジニアで似たような仕事をしているらしい。
夜が更けるにつれて、やや寒くなってきたのでガソリンストーブを点火。
買ってきたビールも飲み干し食事も終わってまったりと…もう21:00くらいかなぁ…。
っと時計を確認して愕然!! まだ18:30!? …就寝時間まで何して過ごす…??
酒は無い…。本も無い。ラジオはあるが電波状況が悪くて全く聞き取れない…。
何の娯楽も無い中、秋の長~~い夜を過ごすのがこれほど苦痛とは…。。
ましてやこれが何日も続いている避難所の方々の辛さは…。
帰宅後確認したら、ボランティアで「エンターテイナー」や「パフォーマー」が募集されていた。
人を楽しませる能力が今切実に求められているね…。。

塩犬「さて、どうしましょ…?」
Mさん「そこのグループに声掛けて合流させてもらおう」

すぐに向かい側で静かに酒盛り?していた数人のグループに挨拶に行った。
すり抜けでもボランティアでも酒盛りでも、ガシガシ飛び込むタイプらしい。
ヘタレの僕には、こういう人が羨ましく思える。いいなぁ。
年嵩の男性6人ほどのグループは僕たちを快く輪に加えてくれた。
銀マットの上に並べられた食料や飲み物を脇にどけつつ着席し乾杯♪

会津・只見の味をご馳走になりました

会津・只見の味をご馳走になりました

素敵なおじさんたちは福島の只見町からやってきたらしい。
「明日の朝、豚汁の炊き出しをやるんだよ。トレーニングセンターとかいう避難所で」
おぉ! 今日、僕ら二人が行った避難所だ。奇遇だなぁ…。
材料も機材も水も食器も持参で300人分の豚汁作り。並大抵では出来ない量だ…。
「とにかく子供たちの笑顔を見たくて、やって来た」と熱く語る彼ら。
リーダー格のSさんが只見町と中越の関係を詳しく語って下さった。

「幕末、会津藩と長岡藩は同盟を結び、薩長をはじめとする新政府軍を相手に幕府軍として戦った。
越後での戦で焼きだされた難民は会津へと亡命。
その途上、只見町に留まった一団が今の只見町の礎となった。
長岡と只見には、そういう深い血のつながりがあるんだ。
只見にコトがあれば長岡が立ち、長岡にコトがあれば只見が立つ。
今回も長岡へ一旦向かったのだが、小千谷・川口の方が被害甚大と聞き、ここへやってきた。
とにかくじっとしてはいられなかった。」

この方々も熱い…。
只見の米で作ったオニギリや野菜の味噌漬け、自家製パンなどご馳走になった。
それにしても野宿も手馴れた様子。普段からアウトドアで遊んでるらしい。
冬山登山にスノーモービル…寒そう~…。
今夜も何人かは、駐車場に直接銀マットを敷いてシュラフで寝るらしい。
それを聞いたMさんも、僕のテントは止めて直シュラフへ転向。
ついでに明朝の豚汁作りを作る手伝いにも行くとのこと。
僕は「4:30起き」と聞いて辞退…すんません、無理しない主義なので…。

就寝は23:00。雨は降ってるがその分それほど冷え込まずに済んだ。



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